宴会部長補佐代理さんの指摘は「そもそも精神鑑定は有効なのか」という大命題であった。たまごどんはある程度まで有効だと思っている。精神鑑定をしなくても、挙動の不自然さが目立つ人が精神障害者だろうとは、精神障害者のふりをする正常者を除けば素人でも判断できる。問題は宮崎勤のような心の奥底に秘めた異常者だろう。それを明らかにするのが精神鑑定だと思う。

精神鑑定とは、数多くの精神病患者データベースの中から、被鑑定者が該当する病名と程度を判断するというものだ。鑑定者は「客観的鑑定人」としての立場を堅持しなければならないとされている。

実際はそんなことはありえず、鑑定者は犯罪者・弁護人・検察・司法のそれぞれの立場、個人的感情や地域感情などを持ち合わせて鑑定に参加することになる。ヴォルフ・クレフェルト氏は、論文の三章にて、実際の鑑定者が客観的存在ではないこと、弁護士と同じく専門知識、依頼者の利益、実務上の倫理規範を考える主観的存在であるし、そう認識することが大事だと述べている。鑑定者は裁判官の補助者としてのみの存在ではないのだと。

「人を裁くな」は聖書の教えであるが、神を待てない我々は、裁判官という人間が犯罪者を裁く他はない。鑑定も同じだろう。鑑定がダメなら裁判もダメということに、論理的にはなってしまう。

鑑定者と被鑑定者は医師と治療者であるという本来の役割がある。さらに鑑定者は精神病患者が不当な罰を受けることを防ぐ公共的役割もある。鑑定人は胸を張って鑑定してヨシ!

佐世保で起こった小6女児殺害事件の加害少女について、こんな記事があった。

>しかし、その[精神鑑定のこと]有効性を重視するあまり、処遇に関する家裁の判断が、鑑定結果に寄りかかることが懸念される。社会評論家の芹沢俊介さん(61)は「鑑定万能主義に陥れば、世間の関心が女児の病名探しに集中し、社会全体の問題として考えようとする意識が薄れる」と指摘する。元東京家裁調査官の浅川道雄さん(72)も「鑑定は処遇決定後に安定した環境の中で行われるべき。医師の専門的な分析に調査官は異論を唱えづらく責任放棄につながりかねない」と警鐘を鳴らす。

>この事件は情報化社会の中、思春期特有の心身の状態、対人関係の悩みなどが重なって起きたとみられる。審判では女児の内面を探るだけではなく、生い立ちや成育環境も含め、検証しなければならない。

長くなったので、この記事で問題提起された精神鑑定の位置づけ、精神病をとりまく医療環境については次回以降に取り上げよう。

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